先日、平田氏帯が世にあらわれた最初の出版物であるために昭和7年(1932年)出版の『弁証法教典』を入手した、という記事を書きましたが、平田内蔵吉自身が平田氏帯について触れた本で現在も手に入れることができるものとして、たにぐち書店の『平田式心療法 -熱鍼快癒術-』があります。
これは昭和12年(1937年)の最終改訂版から復刻されたものであり、改訂後に挿入された平田氏帯についての情報を読むことができます。
さて、『平田式心療法 -熱鍼快癒術-』の出版によって世間に知られ、その分かりやすく効果的な内容によって評判の書となりましたが 、あまりに大きな反響だったため、平田内蔵吉は在学している大学当局より注意を受けることとなります。
大学側は注意喚起するにとどめたようですが、平田内蔵吉の方で大学を退学してしまいました。
ほとんど卒業直前であったといわれています。
現在でも医師というのは社会的に高いステータスを持ち、大学医学部への入学というのは成績も学費も高いために難関とされていますが、当時の医師の地位というのはそれ以上のものがあります。
当然、平田内蔵吉にも親族や周囲の大きな期待があったと思われますが、彼はその社会的エリートコースである西洋医学の道から外れ、民間の一療術家として自らの研究成果とともに突き進んでいくことを選びました。
もっとも、平田内蔵吉はその時点で29歳。
現代の大学1・2年にあたる戦前の旧制高等学校を21歳で卒業した後、同じく現在の大学の3・4年と大学院にあたる旧制大学を卒業した後また別の大学に入学、在学しつつも哲学思想に関する著書の出版や鍼灸・温熱療法の研究所に所属し研究と追求にまい進……という日々を送っていたようですから、もはや在学中から西洋医として身を立てることは考えておらず、大学当局からの注意は本人にとってちょうど良いきっかけであったのかもしれません。
昭和初期までの日本での西洋医学と東洋医学(あるいは民間療法)のそれぞれの立場を見ると、明治になってからは西洋医学こそが最先端の優れた医学であり、それを学んだ者こそが立派な医者であるとされてきていました。
ところが、ひと通り西洋医学が日本に広まり常識的なものとして定着した後、大正から昭和にかけて、一部では改めて民間の療術・東洋の医学を見直す動きが生じています。
西洋科学的視点を得た上で、これまで日本に伝わっていたものを見直すという意識が生まれたこともありますし、その広まり・認められている西洋医学でも回復しなかった人々が次に頼るものとしての民間療法・療術の必要性が生まれたこともあります。
平田内蔵吉が「心療法」を提唱した時期は、ずっと西洋からの技術や文化を一方的に受け入れ続けてきた流れが一段落し、日本オリジナルの、自分たちの医学・体育・健康を見つめなおす時代に突入していました。
現在まで続く日本の健康ブームの最初の大きな流れも、大正から昭和初期にかけて起こっています。
平田内蔵吉が大いに影響を受けたという静坐法の岡田虎二郎、肥田式強健術の肥田春充といった人々の民間健康法も大正期以降にブームになったものです。
こういった”健康法”に多くの人びとが惹きつけられた理由として、病気未満/病気ではないが健康でもないという多くの人々の、強健にあこがれる心や、体と同時に心の健康をも求める心が存在したことがあったと思われます。
急激な近代化の中で、現代の私たちが「いやし」「ヒーリング」と呼ぶものをもっと強く積極的に求める流れがあったのではないでしょうか?
平田内蔵吉の「心療法」がブームとなった一因として、分かりやすく簡単で効果的であるということはもちろんありますが、その一方で平田内蔵吉自身が哲学・宗教に強い興味を持ち研究していた求道者的な人物であり、心と体の健康を強く打ち出していたということも魅力として映ったようです。
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これは昭和12年(1937年)の最終改訂版から復刻されたものであり、改訂後に挿入された平田氏帯についての情報を読むことができます。
さて、『平田式心療法 -熱鍼快癒術-』の出版によって世間に知られ、その分かりやすく効果的な内容によって評判の書となりましたが 、あまりに大きな反響だったため、平田内蔵吉は在学している大学当局より注意を受けることとなります。
大学側は注意喚起するにとどめたようですが、平田内蔵吉の方で大学を退学してしまいました。
ほとんど卒業直前であったといわれています。
現在でも医師というのは社会的に高いステータスを持ち、大学医学部への入学というのは成績も学費も高いために難関とされていますが、当時の医師の地位というのはそれ以上のものがあります。
当然、平田内蔵吉にも親族や周囲の大きな期待があったと思われますが、彼はその社会的エリートコースである西洋医学の道から外れ、民間の一療術家として自らの研究成果とともに突き進んでいくことを選びました。
もっとも、平田内蔵吉はその時点で29歳。
現代の大学1・2年にあたる戦前の旧制高等学校を21歳で卒業した後、同じく現在の大学の3・4年と大学院にあたる旧制大学を卒業した後また別の大学に入学、在学しつつも哲学思想に関する著書の出版や鍼灸・温熱療法の研究所に所属し研究と追求にまい進……という日々を送っていたようですから、もはや在学中から西洋医として身を立てることは考えておらず、大学当局からの注意は本人にとってちょうど良いきっかけであったのかもしれません。
昭和初期までの日本での西洋医学と東洋医学(あるいは民間療法)のそれぞれの立場を見ると、明治になってからは西洋医学こそが最先端の優れた医学であり、それを学んだ者こそが立派な医者であるとされてきていました。
ところが、ひと通り西洋医学が日本に広まり常識的なものとして定着した後、大正から昭和にかけて、一部では改めて民間の療術・東洋の医学を見直す動きが生じています。
西洋科学的視点を得た上で、これまで日本に伝わっていたものを見直すという意識が生まれたこともありますし、その広まり・認められている西洋医学でも回復しなかった人々が次に頼るものとしての民間療法・療術の必要性が生まれたこともあります。
平田内蔵吉が「心療法」を提唱した時期は、ずっと西洋からの技術や文化を一方的に受け入れ続けてきた流れが一段落し、日本オリジナルの、自分たちの医学・体育・健康を見つめなおす時代に突入していました。
現在まで続く日本の健康ブームの最初の大きな流れも、大正から昭和初期にかけて起こっています。
平田内蔵吉が大いに影響を受けたという静坐法の岡田虎二郎、肥田式強健術の肥田春充といった人々の民間健康法も大正期以降にブームになったものです。
こういった”健康法”に多くの人びとが惹きつけられた理由として、病気未満/病気ではないが健康でもないという多くの人々の、強健にあこがれる心や、体と同時に心の健康をも求める心が存在したことがあったと思われます。
急激な近代化の中で、現代の私たちが「いやし」「ヒーリング」と呼ぶものをもっと強く積極的に求める流れがあったのではないでしょうか?
平田内蔵吉の「心療法」がブームとなった一因として、分かりやすく簡単で効果的であるということはもちろんありますが、その一方で平田内蔵吉自身が哲学・宗教に強い興味を持ち研究していた求道者的な人物であり、心と体の健康を強く打ち出していたということも魅力として映ったようです。
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